(1999) 1999/11/20リリース。メジャーデビュー作。 今は亡きファッション雑誌BOONのインタビュー記事で初見で惚れて、購入に至る。自身と彼女とのファーストコンタクトの一枚である。 当時、音楽についてあまりジャケ買いなどの経験がなく、よもや学生の身分の限られた小遣いで購入することなどなかった慎重派である自分が、聴く前に迷うこともなく惹かれるように購入したのはこれが初めてだった。 購入後、すぐ帰宅し、CDをプレイヤーに入れて歌詞カードを眺めながら、曲を聴いたところ、彼女の言葉の詩的世界観が耳に印象が残りつつも、何より彼女の年齢等身大そのままの揺蕩うような『声色』が刺さった。 無駄に過度なオートチューンなどの加工をかけることもなく、拙いといっても差し支えない歌唱力ではあるが、そのウィスパーボイスを生かしたのは英断であり正解であろう。 多感であった時期、厭世的でモノクロだった自分の世界に、彼女の紡ぐ深く不思議な作品に触れ、ちょうど色がついたように波長があった。閉鎖的でデカダンでエピックな詩的世界観とドメスティックでやや古めかしい神秘性の反面、内から発するそのエネルギーは外へ、異世界や国外への第三世界の興味や意欲へと向いているという不思議な少女だった。 90年代後半~2000年代の女性アーティストブームの時代性もあった中、一切それまで音楽を視聴していなかった自分には他の者より、圧倒的に色濃く疵痕を残した一人と言えるだろう。リスナーとしての趣味嗜好を確実に影響されたことは拭えない。 楽曲制作については作詞は全面的に彼女が行い、作曲は一部にも関わりつつも、多くは他者に委ねられていたところがあり、その音の手触りはプログレッシブという評する人間もいたようだが、BJORKのHuman behaviourや彼女が好むというThe Cranberriesもそこはかとなく意識されていたのではなかろうかと感じた。 他にUK方向で若干スピリチュアルなムードはDead Can Dance、Enigmaなどのゴシックロック、エーテリアルウェーブ、ニューエイジ、ダークウェーブなどの匂いが嗅ぎ取られ、重ためで沈鬱な雰囲気は拭えないが、彼女のエネルギーが内側から発せられ、痛みを吐き出しつつも、視線は外部のここではないどこかへの小さな希求、探求心への芽生えがあり、ボヘミアンな雰囲気もあってか、ヘヴィと言うほどまでには感じられない。 彼女の場合、厳密にはあくまで「アーティスト」ないし「詩人」として捉える見方をするが、歌唱力は前述したとおり、等身大の裸の年齢そのままの青さが眩しく、それに負けない彼女の耳元に残る幼いミステリアスな『声色』と、彼女の魅力を理解し、引き出せる外部ライターとプロデューサーの匠な連携によって、彼女のヴィジョンとまるで元々一つの物であったかのような結実したレベルの完成度となっている。 サウンドプロデュースには過去にJ-POP界で一線で活躍し、現在、現役牧師で全国を兼業ミュージシャンとして流す陣内大蔵が全面に関わっている。 ちなみにカラオケの機種にもよるが、彼女の曲がいくつか入っている機種もある。 ・ハリガネ 作詞:螢、作曲:中村英俊、編曲:陣内大蔵 淡々とした鍵盤の音色から始まり、ダークなムードの歌詞ではあるが、主張しすぎないメロディと星くずを散らしたような幻想的な朧げな光が広がる。 感傷的で相手の距離を詰めすぎないやさしさや打ちひしがれた寂しさを湛え、凍てつく叫びが堪える彼女の代表曲の一つである。 ・さくらんぼ 作詞:螢、作曲:Iori、編曲:陣内大蔵 どの曲もそうなのだが、言葉を聴かせるという意味であくまで彼女の声と詞にフィーチャし、メロディも邪魔しないように、意識して過度に華美すぎにしたり、楽器を主張したりせず、言葉を伝えるようにバランスよく配分されている。 単調で無理のないテンポと美しいメロディと囁きは心地よく胸を静かに打ち、ネガティヴな語りはありつつも、おとしやかに沁み込み、厳かに立ち去るようにフェードアウトしていく。 ・大切ココロ 作詞:螢、作曲:阿久津隆一、編曲:陣内大蔵 インディーズ時代のミニアルバム、「ガラクタ」収録のリメイク曲。神秘的な曲で懺悔のような告解とともに幕開ける曲。 過去形文が繰り返され、身体的苦痛と悲劇を延々に語り、願望と救けを弱く訴えている。 救けというには無理に押し付けすぎず、同情を誘うが、主張が弱い部分で諦観と吐露が混じり、行動を諭しにくい部分は国民性というか、日本人の美徳と悪癖が混ざったような… 3曲の内では一番「歌う」というより、明確にポエトリーリーディングをしている曲である。 Best track:ハリガネ、大切ココロ PVの最後0.1秒で最後にサブリミナルのように螢の寝顔が差し込まれる。それに気づいたのはDVD『マーヴルヴィニール』購入大分後のことである。
(2005) 六年のブランクを空けての作品。 NINがキャリアにおいて寡作なのは並行して多くのミュージシャンとの仕事を引き受けたり、スランプということもあり、同時にさらにたくさん色々なことをやりたいという指向性の現れなのであろう。 ただそこまでの期間を開けても、21世紀現代の音楽制作の今となっては、デメリットでも日常的に不思議なことでもなく、さしたる問題にもなりえなくなっているし、全体のクォリティと楽曲の良さの面では申し分ないアルバムとなっている。 この頃から心地よく無理のない自然体で身動ぎがしそうな、シンプルで耳に残るカッチリとしたドラムやビートの曲群が顕著に顕れ始める。この後のYear Zero、Slipも同様の傾向が見られ、強すぎない高揚感とバランスの良いポップな趣きがある。 仄暗さはそのままずっと変わりなく、激しさが減退した分、聴き疲れが少なく、以前より落ち着いたという見方もできるが、The Hand That Feedsなどのトラックからも挑戦的に煽るような怒りや歌詞など、野心を捨てたような感じは受け取れない。 元々アンビエントに興味を示していたことからも耳を落ち着ける清涼的な曲もあり、派手なアルバムではなくとも、キャッチーさやメロディの美しさ等も多くのリスナーにとって十分で、やや暗いと言うことを除けばだが、普段聞きしても軽快にノれるアルバムではないだろうか。 逆に言えば音楽に極端な色濃さを求めるタイプには中途半端、ビートをそこまで求めないリスナーにはやや固めな印象になるとも思えるかもしれないが… またアートワークの良さも相変わらず美しく、個人的にはNINの中で随一を誇るお気に入りである。 Best track:The Hand That Feeds、Only、Right Where It Belongs、Every Day Is Exactly The Same
2001年公開、市川準監督、田中麗奈主演。 この映画に興味を持ったのは映画そのものに惹かれたわけではなく、この作品に筆者自身が好きなミュージシャン、螢自身が端役で出演していたためである。 あらすじとしては主人公は何をしても晴れない日常から、ふとしたきっかけに恵まれ、期限付きの定められた恋をする。しかし、彼女はその恋の終わり際に未練を残してしまい、ふっきろうと努める。 だが、偶然にもその相手もまた自分と同じように過去の恋人を引き摺っていることを知り、主人公は憑き物が取れたようにすっきりと日常に帰依する。というストーリー。 螢は本人役として主人公がファンとして訪れる螢のサイン会に登場。 螢の曲、カゼドケイの曲が流れるのは21分から24分16秒まで。 螢の出番は23:08~23:43くらい(螢の顔が出てくるのは正確には23:30から23:39まで)。 タワーレコードでのサイン会で、赤みがかった茶髪でネックウォーマーとベージュっぽいジャージを着た螢の姿が映し出される。台詞は乾いた声で色紙にサインするファンの名前を聞き出すのみ。 このブログの表題にある台詞は作中で主人公の母親役で彫刻家を生業とする樹木希林がつぶやいた台詞。彼女は実家に帰ってきた娘に作品制作の行き詰まりを漏らす。 ミケランジェロは「石の中には既に像が潜んでいる。彫刻家は余分な石を取り除いて像を開放してやるだけで良い」と言ったそうだが、母親は作品の完成図へ辿る道や意図を失い、その娘である主人公もまた自分の恋路の不安を抱えて彷徨っていた。 その行為に熱中している時は「視えない。」ものがある。 妄執のような熱を持ったまま進んでいる時が一番に速く走れるのだが、一人孤独な狂気のような熱に浮かされてなすが儘に飛ばせば、その暴走が終わった時ふと周りを見渡すと、自分がどこにいるのか、どこへ進めばいいのか、どうすればいいのか、混迷し、途方に暮れる。それが意識された時に意欲は萎え、自然に足取りは止まる。 はたして映画の彼女らは別として、音楽で世界と自分の傷を独り言つように詠い、ある時に沈黙し、シーンから消えた螢は、何が「視えなくなった」のだろうか。それとも「視えた」から去ったのか。 最後のアルバム『螢』からは少なくとも個人的にはそんな印象は持てなかったが、以前の言葉の鋭さは失ったように思えた。 代わりに、遠くの国から過去にアルバムで語ったような仕草からは見受けられぬ、やや違和感の残るヘタでまるで慣れていない小さくおだやかな希望を語り残していったが、 リスナーぼく自身が置いてけぼりを食ったように、彼女自身にも正体不明の呆然とした消化不良の印象を残したように見えた。 ただこれはあくまでも自分の印象である。ラストアルバムで最後に語った言葉には「決めた」意思のようなモノがなくもなかった。 僕の勘違いで、この映画の主人公のように彼女自身もすっきりとして、キリをつけられたのかもしれない。 ある時から創作の筆を折った僕も「視えなくなった。」 このブログを再開するにしたって途方もなく時間がかかった。しかし、再びぼくが動き出しているように見えるのは多分「視える」ようになったわけではない。 何かに熱中しているわけではないが、相変わらず「視えない」し、持病のせいもあるが、過去に受けた強い傷の疼きや足取りもまだ気怠い重さを感じている。 他人に弱さをさらけだすことも億劫で、それを開示することも恐れを感じるし、気持ちよくはない。 また「視る」ことも下手で現実を「視る」ことにも疲れている。 やはり、いつの頃から出たのか分からぬ不安は解決せず、変わらずそこにある。 残り時間だけが迫っていく中で、自分とこの周りへの不信感、やさぐれ感はぬぐい切れず、自分でも理由が分からないが、おぼろげな幻像を「視たいのか」疑問だが、それでも頼りないおぼつかない足取りでだらだらと引き摺るように歩み始めたのだ。 ぼく自身、この先は生まれて二十数年経った今でも未だに何も分からない、希望があるわけではない。 だが、今の彼女がどうあるか分からないが、彼女から受けた言葉の数々に救けられた想いに感謝と礼を込めつつ、願わくば少なくとも健やかに笑っていて欲しい。ありがとう。 そう思った。