『作っているとね、途中で必ず見えなくなるときがあるのよね・・・』 東京マリーゴールド-螢-



2001年公開、市川準監督、田中麗奈主演。
この映画に興味を持ったのは映画そのものに惹かれたわけではなく、この作品に筆者自身が好きなミュージシャン、螢自身が端役で出演していたためである。
あらすじとしては主人公は何をしても晴れない日常から、ふとしたきっかけに恵まれ、期限付きの定められた恋をする。しかし、彼女はその恋の終わり際に未練を残してしまい、ふっきろうと努める。
だが、偶然にもその相手もまた自分と同じように過去の恋人を引き摺っていることを知り、主人公は憑き物が取れたようにすっきりと日常に帰依する。というストーリー。
螢は本人役として主人公がファンとして訪れる螢のサイン会に登場。
螢の曲、カゼドケイの曲が流れるのは21分から24分16秒まで。
螢の出番は23:08~23:43くらい(螢の顔が出てくるのは正確には23:30から23:39まで)。
タワーレコードでのサイン会で、赤みがかった茶髪でネックウォーマーとベージュっぽいジャージを着た螢の姿が映し出される。台詞は乾いた声で色紙にサインするファンの名前を聞き出すのみ。
このブログの表題にある台詞は作中で主人公の母親役で彫刻家を生業とする樹木希林がつぶやいた台詞。彼女は実家に帰ってきた娘に作品制作の行き詰まりを漏らす。
ミケランジェロは「石の中には既に像が潜んでいる。彫刻家は余分な石を取り除いて像を開放してやるだけで良い」と言ったそうだが、母親は作品の完成図へ辿る道や意図を失い、その娘である主人公もまた自分の恋路の不安を抱えて彷徨っていた。
その行為に熱中している時は「視えない。」ものがある。
妄執のような熱を持ったまま進んでいる時が一番に速く走れるのだが、一人孤独な狂気のような熱に浮かされてなすが儘に飛ばせば、その暴走が終わった時ふと周りを見渡すと、自分がどこにいるのか、どこへ進めばいいのか、どうすればいいのか、混迷し、途方に暮れる。それが意識された時に意欲は萎え、自然に足取りは止まる。
はたして映画の彼女らは別として、音楽で世界と自分の傷を独り言つように詠い、ある時に沈黙し、シーンから消えた螢は、何が「視えなくなった」のだろうか。それとも「視えた」から去ったのか。
最後のアルバム『螢』からは少なくとも個人的にはそんな印象は持てなかったが、以前の言葉の鋭さは失ったように思えた。
代わりに、遠くの国から過去にアルバムで語ったような仕草からは見受けられぬ、やや違和感の残るヘタでまるで慣れていない小さくおだやかな希望を語り残していったが、
リスナーぼく自身が置いてけぼりを食ったように、彼女自身にも正体不明の呆然とした消化不良の印象を残したように見えた。
ただこれはあくまでも自分の印象である。ラストアルバムで最後に語った言葉には「決めた」意思のようなモノがなくもなかった。
僕の勘違いで、この映画の主人公のように彼女自身もすっきりとして、キリをつけられたのかもしれない。
ある時から創作の筆を折った僕も「視えなくなった。」
このブログを再開するにしたって途方もなく時間がかかった。しかし、再びぼくが動き出しているように見えるのは多分「視える」ようになったわけではない。
何かに熱中しているわけではないが、相変わらず「視えない」し、持病のせいもあるが、過去に受けた強い傷の疼きや足取りもまだ気怠い重さを感じている。
他人に弱さをさらけだすことも億劫で、それを開示することも恐れを感じるし、気持ちよくはない。
また「視る」ことも下手で現実を「視る」ことにも疲れている。
やはり、いつの頃から出たのか分からぬ不安は解決せず、変わらずそこにある。
残り時間だけが迫っていく中で、自分とこの周りへの不信感、やさぐれ感はぬぐい切れず、自分でも理由が分からないが、おぼろげな幻像を「視たいのか」疑問だが、それでも頼りないおぼつかない足取りでだらだらと引き摺るように歩み始めたのだ。
ぼく自身、この先は生まれて二十数年経った今でも未だに何も分からない、希望があるわけではない。
だが、今の彼女がどうあるか分からないが、彼女から受けた言葉の数々に救けられた想いに感謝と礼を込めつつ、願わくば少なくとも健やかに笑っていて欲しい。ありがとう。
そう思った。
tm1
tm2
tm3

TOP